― 利他が「道徳」ではなく「生命の仕組み」である理由 ―
1. 「人のために生きなさい」に、疲れてしまったあなたへ
これまでの人生で、何度「人のために」「家族のために」「周りの期待に応えて」と言われてきたでしょうか。
気がつけば、自分の気持ちは後回し。
体の不調や痛みさえも、「私が我慢すればいい」と飲み込んできた。
だからこそ、
「利他」や「愛」「祈り」という言葉に、
どこか重さや息苦しさを感じてしまう。
もしあなたがそう感じているなら、
まず最初にお伝えしたいことがあります。
それは、あなたの感覚は正しい、ということ。
本来の利他は、
人をすり減らすものではありません。
2. 利他は「いい人になること」ではない
私たちは長い間、
利他を「自己犠牲」や「我慢」と結びつけて教えられてきました。
でも、少し立ち止まって体の反応を思い出してみてください。
- 誰かの無事を祈ったとき
- 子どもや大切な人の寝顔を見たとき
- 同じ苦しみを抱えた人の話に、胸が静かに共鳴したとき
その瞬間、
呼吸が深くなったり、体の力がふっと抜けたり
しませんでしたか?
それは、
あなたが「いい人」だからでも、
徳を積んだからでもありません。
人は、誰かとつながっている感覚の中でこそ、
最も安定するようにできているからです。
3. 人は「分離」よりも「つながり」を前提に生きている
現代社会では、
「自立」「自己責任」「一人で頑張る」ことが美徳とされがちです。
けれど、体と心の仕組みは、
決して“完全な孤立”を前提に作られてはいません。
神経系は、
- 安全だと感じられる関係
- 誰かと気配を共有している感覚
- 理解されている、という実感
こうしたつながりの中で最も落ち着くのです。
利他の祈りや、思いやりの感覚は、
宗教的な行為というよりも、
神経系を元の位置に戻す「調律」に近いものです。
4. 痛みは、あなたを罰しているのではない
慢性的な痛みを抱えていると、
「なぜ私だけが?」という思いが浮かぶことがあります。
でも、ここでひとつ、
別の見方を差し出させてください。
痛みは、あなたを壊すために現れているのではありません。
それはむしろ、
- これ以上、一人で抱えなくていい
- もう限界だという体からの合図
- 世界とのつながりを取り戻すためのサイン
として現れている可能性があります。
痛みを経験した人ほど、
他者の苦しみに敏感になり、
共感の回路がひらいていきます。
それは「弱さ」ではなく、
人としての感受性が深まった証でもあるのです。
5. 宗教ではない、「信仰的な姿勢」という選択
ここで言う「信仰」は、
どこかの宗教に属することでも、
特定の教えを信じ込むことでもありません。
それは、
- 世界は完全に断絶していない
- 私はひとりきりではない
- 見えないところで、何かがつながっている
そうした感覚を、大切に扱う姿勢のことです。
正解を信じなくていい。
証明できなくてもいい。
ただ、
「そう感じてもいい」と、
自分に許可を出す。
それだけで、
体と心の緊張は、少しずつほどけていきます。
6. 利他は、あなたが生き残るための力
利他は、
立派な人が選ぶ道徳ではありません。
それは、
傷つきながらも生きてきた人が、
もう一度、世界とつながるための知恵です。
誰かを想うこと。
誰かの安らぎを願うこと。
それは、
あなた自身の存在を、
この世界にそっと戻していく行為でもあります。
7. 結び:あなたは、すでに与える側にいる
もし今、
体の痛みや心の重さを抱えているとしても、
それはあなたが「足りない」からではありません。
あなたはすでに、
感じる力を持ち、
想う力を持ち、
誰かと共鳴できる場所まで、
生きてきたのです。
今日、ほんの一瞬で構いません。
「どこかの誰かが、少し楽でありますように」
そう心の中でつぶやいてみてください。
その祈りは、
巡り巡って、
あなた自身の体と心を包む
静かな回復の波となるかもしれません。
あなたは、ひとりではありません。
そして、もう十分に、よく生きています。
静岡・沼津・三島・函南のこころねセラピー:秋山幸徳


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